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2010年9月28日火曜日

天空からの視点


先ほど、Macをいじっていたら、先日の大阪出張の際撮った大仙陵古墳(通称 仁徳天皇陵)の写真が出てきました。
歴史の教科書で航空写真を見た事はあるのですが、実地で肉眼で見たのは初めてです。
面積比で世界最大の古墳と言われるだけあって、近くから見ても遠くから見ても、ただの平たい山に見え、航空写真で見るような鍵穴のような形には見えません。
近くに古墳全体を見下ろすような高い山は無く、古代人はいったい誰に見せるためにこのような巨大なモニュメントを作ったのでしょうか?

ナスカの遺跡と言い、この大仙陵と言い、古代人は明らかに天からの視点を意識したようなモニュメントを作り、その後、時代が進むにつれ天からの視点を意識しなくなって、人間に見せるためのモニュメントばかりになって行きます。

古代は謎だらけですので、様々な仮説を立てる余地が広大にあり、実証も反駁も出来ない事が殆どですので、筆者もここで反証が難しい珍説を開陳したいと思います。

多くの人がそうだと思いますが、筆者も子供の頃は空を飛ぶ夢をよく見ました。
夢の中では、小学校の校舎や自宅の近所の町並みが上空からパノラマのように見えたりします。実にリアルな映像でした。
ところが大人になると、空を飛ぶ夢は滅多に見なくなります。
筆者の仮説は、古代人は、子供と同じように、地上から見た様々な角度の風景を頭の中で組み立てて鳥瞰視する能力が長けていたのではないか?と言うものです。
大仙陵を作っていた古代人は空から見たパノラマが見えていた。
しかしその後、そのような能力は発揮する場面がなくなり、子供時代の夢の中だけに生き残っている、というのは文字通り夢のある説だと思いませんか?

2010年9月21日火曜日

バブルの遺跡

筆者がまだ子供の頃「戦争を知らない子供たち」という軽薄な、いかにも団塊世代狙いのタイトルの歌が流行った事があります。
 最近は、それに対抗して、日本経済のバブル崩壊後に生まれそだった「バブルを知らない子供たち」と言う言葉があるそうです。
バブルと言う現象は、いくつかの経済的条件がそろった時に見られる現象だそうで、歴史的には日本以外でもあったそうですが、そんなに長くは続かないと言う点で各国共通です。
筆者はバブル全盛の頃は20代で、ほとんど恩恵を被ることが無かったのですが、それでも何度か銀座の高級クラブで取引先の接待を受けた事があります。
当時は、値段の高いものから順に売れて行った時代ですので、質実はともかく接待費は相当かかったと思います。

時代は変わり、銀座の高級クラブはかなり消えたそうですが、しかしながら、さほど残念と言う気持ちにはなれません。
高級クラブで美女にお酌されるよりも、可愛い女の子と水族館に行ったり、お好み焼き屋で彼女とお好み焼きを分け合って食べてる方が、百万倍も楽しい事は間違いありません。

筆者は仕事上、フランス系の人間とつきあう事が多いのですが、先月フランス系カナダ人と電話で話をしている時に(ちなみにスカイプを使用)、夏休みの話になってお互いのプランを紹介し合いました。
彼は、夏休みは家族を連れてイタリアの○×△▼湖畔(聞き取れず)へ行くと言います。
なんでもローマ時代からの保養地で、ローマ時代以前の遺跡もごろごろしているそうです。
もっともバブルが崩壊してここ数百年は寂れてきているが、そこが良いともいいます。
筆者も一度、ローマ時代のバブルが崩壊した保養地でフランス式のバカンスをやってみたいものです。

2010年9月19日日曜日

文学散歩 ー 高等遊民の住処

筆者は運動不足解消のため、時折自転車で小石川にあるフィットネスクラブまで通っています。
筆者の通る市ヶ谷、牛込、小日向、小石川と言った辺りは、明治の文豪夏目漱石の生活圏とかなりオーバーラップしており、漱石の小説の読者の方はご存知だと思いますが、彼の小説の舞台や登場人物もこの界隈に数多く取り上げられています。
文壇デビュー作である「我が輩は猫である」の直接の舞台はここから谷一つ隔てた本郷台地であるものの、登場する謎の高等遊民、美学者、迷亭の住処はどうやら神楽坂近辺のようです。
夏目漱石の生活史は、数多くの研究者により研究されており、ウェブ上でも取り上げられていますが、それでも、迷亭のモデルには定説は無いようです。
鏡子夫人は、「漱石の思いで」の中で、”たいていの登場人物のモデルは見当がつくが、迷亭だけは思い当たる人物がいない、漱石自身の一側面を人格化した人物では”と言った趣旨の事を述べられています。

「我が輩は猫である」を読むと、迷亭は郵便を入れながら牛込見附(今の飯田橋駅西口あたり、神楽坂を下りきったところ)近辺を散歩すると言う表現に出くわします。
また、迷亭の発言から、「自宅の近所に南蔵院と言う寺がある」ことが判ります。
これらの点から、この界隈を知っているものなら、おおよそ思い当たる場所が浮かび上がって来ます。
南蔵院
地蔵坂、旧名ワラダナ

左は、牛込にある南蔵院の写真です。
また、左下は神楽坂から南蔵院方面に登る地蔵坂、別名ワラダナと呼ばれる坂の写真です(ちょうど秋祭りだったので、法被を着ている人が写りました)。

そして、ここまで来ると、迷亭のイメージは、漱石の別の小説「それから」の主人公、長井代助と重なって来ます。
代助は裕福な資産家の次男坊で、帝国大学を卒業後も仕事には就かず、親に一軒家を建ててもらい悠々自適の生活を送っています。

そんな高等遊民、代助の住処として漱石が選んだ場所は、地蔵坂、ワラダナを登り切った高台、南蔵院にもほど近い袋町の光照寺付近です。
光照寺付近は、中世の牛込城の跡と言い伝えられ、この付近では一番の高所であり、高等遊民が住むにはいかにもふさわしい場所と言わねばなりません。




袋町の家並み
光照寺 入り口付近
















神楽坂周辺は、第二次大戦中に空襲に遭い焼け野原になっていますので、古い建造物は残っていませんが、主な道筋は戦前のものとほぼ一致します。

昔は、光照寺の境内から東京湾に出入りする舟の姿が眺められたと言います。

市街を見下ろすこの辺り一番の高台に住む高等遊民の迷亭や長井代助は、漱石の一側面の性格を持ちながらも、ある意味憧れの生活を送る人物像だったのではないでしょうか。

光照寺付近の地図

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2010年9月10日金曜日

法善寺横町

織田作之助作「夫婦善哉」は名前だけはかすかに聞いた事はあるものの、藤島桓夫氏が歌う「月の法善寺横町」とイメージがごっちゃになり、おまけに、食べ物の「ぜんざい」と何の関係があるのか分からず、長い間謎の状態でしたが、今回、法善寺と言う実在する寺がある事を発見し、積年の疑問が解決しました。

法善寺横町の入り口。(写真左)
夫婦善哉の店も、法善寺の隣にあります。

もともとは、明治の頃、1人前のぜんざいを、量を多く見せるために2つのお椀にわけて出していたのが評判になり、店を切り盛りしていた母娘が、それを夫婦ぜんざいと呼んで説明し始めたのが発端で、その後、法善寺の近所に生まれ育った織田作之助が、法善寺横町を部隊に、自分の姉夫婦をモデルに小説を書き、 それが森重久弥主演で映画化されて有名になり、また作詞した「月の法善寺横町」も大ヒットしたと言うのが、法善寺が全国区にのし上がったストーリーのようです。

現在は、法善寺境内の水掛不動尊は、縁結びの神様、商売の神様として信仰されています。
筆者も、あやかろうと、水掛不動尊に水をたっぷりかけ、お祈りしてきました。


(写真右)観光客とおぼしき外人さんも一人歩きしている法善寺のこいさん通り。

2010年9月7日火曜日

日本の恒河

プロ野球ファンの聖地、道頓堀川に行ってきました。
通りすがりの人間にとっては単なるどぶ川ですが、プロ野球ファンにとっては聖なる河、
日本のガンジス川のようなものでしょうか。
数十年に一度、沐浴する人で河は溢れるとか・・・

ちなみに、数の単位の恒河沙( =1056)は、ガンジス川( = 恒河)の砂の数というのが原義だそうです。

2010年9月6日月曜日

大阪なんば

今週は、大阪に出張に来ております。
宿は南海なんば駅の真上のホテルですが、目の下に通天閣があるのには驚きました。
筆者は関西生まれなのですが、恥ずかしながらあまりこちらの方に来た事がなく、通天閣も写真でしか見た事がありません。
さっそく、通天閣のそばで噂に聞く「きつねうどん」を食そうと、 適当に歩き回ったのですが、様々な小路が迷宮のように入り乱れて錯綜し、まるで異次元トンネルに入り込んだようにたどり付けず、元の場所に戻って仕舞いました。
しかし、薄暗い路地にほの明るい灯火を掲げるお店はどこも謎めいて魅惑的です。

また、プロ野球ファンの聖地、道頓堀川も近くにあるそうで、滞在中にぜひ訪れてみたいものです。