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2007年3月24日土曜日

UML中級講座 第110回 ノードのメタモデル

筆者は、普段はできるだけ車や電車を使わず自転車で移動することを心がけています。自転車乗りの人はよくご存知だと思いますが、自転車は、道が平らであると長い距離も苦にならず、どこまでも気楽に行くことができます。
従って、自宅のある新宿から青山とか六本木辺りは、毎日我が庭のように走り回っていましたが、オフィスを移転するまでは、赤坂方面にはほとんど足を踏み入れることはありませんでした。
これはひとえに、赤坂近辺が名前の通り起伏が激しく坂道が多いためでした。赤坂のオフィスのまわりには、かつて幽霊が多く出現したので幽霊坂と名付けられた坂や、のっぺらぼうが出現することで有名な紀伊国坂、忠臣蔵で有名な南部坂など、大小様々な坂がたくさんあります。
しかし不思議なことに、赤坂と言う名前の坂は存在しません。この辺りは、かつて第2次大戦前は赤坂区と呼ばれたほど広範な地域を包含していた地名なので、現在赤坂と呼ばれている地域以外の隣接する区の地名も探してみましたが見つかりませんでした。そして調べて行くうちに、この謎を解くヒントは「元赤坂」という現在も残る地名にあることが解りました。
江戸時代の地図を見ると、赤坂と言う坂はありませんが、[元赤坂町」という町名がそのころから既に存在していたことがわかります。場所も現在の元赤坂とほぼ同じ地域を指し迎賓館から赤坂離宮を中心とした一帯を指す地名です。この辺りは、江戸時代は紀伊和歌山藩の中屋敷があった所ですが、江戸時代以前は茜山(あかねやま)と呼ばれる小さな山だったようです。茜山の語源も諸説あるようですが、一説によると古代の染料の原材料である茜がたくさん生えていたからと言われています。そうして、その茜山に登る坂道が茜坂(あかねざか)と呼ばれていたようです。現在、紀伊国坂と呼ばれる坂も茜山に登る当時の山道の一つです。
そして茜坂が訛って赤坂となったと言う説が、最も有力な説になっています。この説の一つの傍証として、明治の始めの頃、紀伊国坂の麓に茜坂小学校と呼ばれる学校が存在していた事があげられます。(但し、古名が伝わって名付けられたのか、伝説をもとに名付けられたのか、今となっては不明)
恐らく、紀州藩の屋敷を建てる時に地形も多少変わってしまい、赤坂もしくは茜坂と呼ばれる元の地形、原風景は存在しなくなってしまったのだと思いますが、地名だけは伝えられて来たようです。




ノードのメタモデル

図10−03の左図は、ノードのメタモデルを表しています。ノードは、クラスを特化しており、クラスの性質を継承します。ノードには、ハードウエア環境を示すデバイス(<<Device>>)と、ソフトウエア環境を示す実行環境(<<Execution Environment>>)の二種類があり、ノード同士を入れ子にすることが可能です。

また、ノード間のネットワークを示すコミュニケーションパスは、クラス間の関係である関連の一種として定義されます。

図10−03